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「ハヤテのごとく!」
がらんどう

がらんどう

 ←あらすじ 
 憎たらしい朝が来た。
 カーテンの隙間から射し込む朝日が、一日の始まりを告げていた。薄暗い寝室の中に入り込む光は、真っ直ぐカーペットに突き当たり窓枠の影を落とす。周囲の闇を集めたかのようにくっきりとした影から目線を上にずらすと、無数の塵が光を反射させながら漂っているのが分かった。
 気怠い体をベッドから起こし、眠い目をこすりながらカーテンを開ける。襲いかかる圧倒的な光量に顔をしかめながらも窓を開けると、新緑を揺らすそよ風が室内に吹き込んだ。ふと気になって窓のサッシを撫でると、溜まった埃が指に付いた。息を吹きかけ外へと飛ばす。
 それから私は、着ているネグリジェへと手を伸ばした。しゅるりと一気に脱ぎ捨てる。クローゼットを開け、少し迷ってから飾り気のない真っ白なワンピースを取り出した。

「お嬢様」

 ワンピースに袖を通すとそれとほぼ時を同じくして木製の扉がコンコン、と二度乾いた音を立てた。次いで、若い男の声。

「もうお目覚めになられてますか?」
「……えぇ、ちょうど起きたところです」
「それは良かった。今朝の調子はどうですか? いつもとお変わりないようですが」
「そうですね。すこぶる、良好です」

 ……残念なことですけど。
 そう心の中で付け足す。体調は良好に違いないが、気分は最悪だった。出来る事なら、一日中ベッドで寝ていたい。

「じゃあ、もう朝食は出来てますから。すぐに来てくださいね」
「分かりましたわ。すぐ、行きます」

 私の言葉を聞いて、彼は「では」と一言残して扉の前から離れたようだった。パタパタという足音が次第に遠くなっていく。
 その規則的な足音を耳にしながら、私はドレッサーの前に腰を下ろした。鏡を見ながら髪を梳かし、両サイドで髪を結い上げる。

「……もういい年なのに、ツインテールなんて似合いませんわね」

 鏡に映るツインテールの自分を見て、私は一つ、ため息を吐いた。それは薄暗い室内にゆっくりと沈みこみ、埃と一緒に絨毯を覆う。私はかぶりを振り立ち上がった。
 ぎぃっ、と音を立てて扉を開ける。汚れ一つないカーペットが敷かれた廊下に出ると、扉は軋み、重厚な音を残して世界を隔てた。



「今朝は、良い卵が手に入ったのでオムレツにしてみたんですよ」

 大小二枚のお皿が、テーブルクロスを敷いた食卓の上に乗っていた。
 彼の言葉通り大きなお皿の上にはふわふわなオムレツとサラダが、小さなお皿にはシンプルな丸パンが盛り付けられている。どれも出来立てで温かく、起きたばかりの私の食欲をかき立てた。

「じゃあ、早速……。いただきます」

 オムレツをナイフで切り、口に運ぶ。
 まずソースの甘みが口に広がった。それから一回二回と咀嚼するたびに卵の甘みが溢れ出し、ソースと合わさる。二つの甘みは互いに殺すことなく調和して、極上とも言える味を作り出していた。
 文句なく、美味しい。どこぞのホテルの一流シェフが作った朝食だと言われても疑うことはしないだろう。

「……どうですか?」
「卵がふわふわですし、かかってるソースも甘くてとっても美味しいですわ」

 答えて、もう一口。
 咀嚼して飲み込んでから口を開いた。

「ソースはエビですか?」
「えぇ、アメリケーヌソースです。昨日の夕食でエビを使ったので」

 あぁ、そう言えば。
 彼の言葉に、私は昨日の夕食にオマールエビが使われていたことを思い出して頷いた。アメリケーヌソースは一般的にオマールエビの殻を使って作るソースだ。パスタやオムレツに良く合うが、作るのには少し手間がかかる。

「でも、手間だったでしょう?」
「いえいえ。お嬢様が美味しそうに料理を食べてくれることを考えれば、手間でも何でもないですよ」

 ニコリと顔に笑みを浮かべ、彼は歯の浮くような台詞を口にした。
 その笑顔に堪えられなくて、誤魔化すように目線を逸らしオムレツを口に運ぶ。
 無意識にそんなこっ恥ずかしいことが言えるのは、彼が生粋の天然ジゴロだからなのか、それともまた別の何かのせいか。彼のことだから、そんな言葉には深い意味はないのだろう。けれど、惚れた弱みで心が揺れた。
 私は頬が落ちるほど美味しいオムレツと丸パンを食べ、サラダを平らげてから、口を開いた。

「……それなら、良いんですけど」

 彼は私の言葉に答えなかった。黙ってお皿を下げ、ティーセットを代わりに置く。ベルガモットの爽やかな香りがふわりと立ち上がって、鼻孔を抜けた。

「アールグレイです」
「えぇ、ありがとう」

 一口飲み、ふと気になって透き通った紅色の水面を覗き込んだ。ゆらゆらと昇る湯気の向こうに、くすんだ瞳の私が見えた。
 そのくすんだ瞳に若干の嫌悪感を覚えて視線を上げると、今度は染み一つ無い純白のテーブルクロスが視界に入る。

「……お嬢様?」
「……いえ、何でもないですわ」

 彼に名前を呼ばれて、私は顔を上げた。
 側に立つ彼に何でもないと示すように紅茶に息を吹きかけ、一気に流し込む。少し品の無い飲み方だが、そこは仕方ない。

「あぁ、そう言えば」

 ティーセットを下げながら彼は思い出したかのように振り返って、またも私に笑顔を向けた。

「今日もその髪型、似合ってますよ」

 ――あぁ、まただ。
 私は彼から目を逸らし、小さくボソリと呟いた。彼はお面のように貼り付けられた笑みを浮かべていて、しかし、その瞳は全く笑っていない。

「……えぇ。ありがとう」

 上辺だけは完璧で。
 その分、中身は空っぽだった。

 ――世界も、彼も全て等しく。



 東京都練馬区東半分。
 そんな馬鹿げた住所を持つお屋敷で、私は彼と二人だけで住んでいる。その広大な敷地の中には山や川をもちろんのこと、湖から何までなんでもござれ。
 やろうと思えば二人で暮らす分には十分な食べ物を得ることができたし、何か欲しいものがあればパソコンからクリック一つで手に入れることができた。さながら二人だけの、二人ぼっちの世界である。

 今でこそ、このお屋敷は私のものであるのだが、もともと数年前まではとあるお金持ちの少女のものだった。私と彼はその使用人で、その三人でここに住んでいた。
 けれども、私達の主人と使用人という肩書は形式的なものであった。
 私達は主従という形式を超えて、まるで家族のような関係を築いていた。さしずめ彼女を中心に、私が姉で彼が兄。
 彼女はワガママで素直じゃない手のかかる少女であったが、彼女を中心とした日々はそれなりに幸せだったのだと思う。
 グズる彼女を起こし学校に向かわせ、ある時はワガママに付き合い、またある時は厳しく諌めた。
 けれどその幸せは長く続かなかった。
 ある日突然、彼女はこの世から姿を消したのだ。私と彼が目を離した隙にトラックに轢かれて、酷くあっさり、その短い生涯に幕を閉じた。
 彼女の死を一言で言うならば、無意味な死であった。彼女の持つ遺産相続の権利を狙ったものでもなければ、運転手に彼女に対する恨み辛みがあったわけでもない。ただの余所見運転。それが事故の原因だ。
 彼女は、たまたま運悪く、そこに存在した故に死んだ。それ以上でも、それ以下でもない。無意味な死だな――。そう思ったことだけは、鮮明に覚えている。

 当時のことは、よく覚えていない。
 ただ、彼女が死んで途方に暮れている間に、彼女の祖父と彼が話を進めて、この屋敷の所有権は彼女の祖父の養子であった私の下へと転がり込んできたのだった。
 こうして私は主となり、彼は変わらず使用人のまま。ただ一人が欠けたまま時が流れて、そこには違和感しか残らなかった。

「――お嬢様」

 彼の言葉で、我に返った。
 庭のベンチから立ち上がって、ワンピースの裾と屋敷から出る前に被った麦わら帽子を整える。

「お昼寝でも、なさってたんですか?」

 彼はお面のように完璧な笑みを浮かべていた。まるでそれしか表情を知らないかのようないつもと変わらぬ笑顔。それは、私をひどく不安にさせた。

「……えぇ、少し」
「いい陽気ですしね。けど、気を付けないと綺麗な肌が焼けてしまいますよ」
「そうですわね。……戻りましょうか」

 そう言って私はお屋敷へと足を向ける。数歩歩いて思い直して、くるりと彼の方へと向き直った。

「……貴方は」
「なんですか? お嬢様」

 彼は可愛らしく小首を傾げた。

「貴方はいつも、何を見てるんですか?」
「……僕はいつも、お嬢様のことを見てますよ?」

 彼は少し言葉に詰まってから、やはり、お面のような笑みを浮かべてそう告げた。

 ――嘘ばっかり。

 出かかった言葉を慌てて飲み込む。

「あら、お上手ですね」
「いえいえ、本心ですよ」

 ――彼は、私の向こうに何を見ているのだろうか。



 ――なんて臆病なのだろう。
 自室に戻り、私は髪を解いてベッドに飛び込んだ。それから、ごろりと転がって枕を抱え込む。
 実際のところ、彼がいつも何を見ているか、という問いに深い意味はなかった。それはあまりにも分かりきったことであったし、そもそも彼が答えないであろうことは想像に難く無い。

「……初めから、分かっていたことですわ」

 亜麻色の髪を弄る。
 そう、初めから分かりきったことだったのだ。

 私にツインテールが似合うと薦めてきたのは彼であった。試しに髪型をそうしてみると、彼は可愛い、似合うと絶賛の嵐。
 それが嬉しくて、彼に褒めて欲しくて、私は毎日ツインテールを結うようになっていた。
 暫くして、彼は私に愛の言葉を囁くようになった。愛しています。僕から離れないで。僕を一人にしないで。
 私はそれが嬉しかった。
 彼に必要とされてるようで、その言葉を囁かれる度に、私の心はビクンと跳ねてじんわりと暖かさが広がった。
 けれど、私も馬鹿ではない。いや、馬鹿だったらどんなに良かったことか。どんなに幸せだったことか。
 けれど、世界は残酷で。私は気付いてしまったのだ。彼が愛を囁いている相手は私ではないことに。
 私は彼女の代替に過ぎなかったのだ。
 彼はあくまでも主従の関係に拘った。突然起きた悲劇を受け入れられなくて、代わりのモノを配置して、今まで通りにすごそうとしたのだ。だから私をこの屋敷の主にし、髪型をツインテールに変えさせたのである。
 さしずめ、この二人ぼっちの世界は彼の作った仮初の世界。『今まで』を『これから』も続けるための世界。

「……私は……」

 私はベッドから身を起こした。
 彼にとって、この世界から本当に居なくなったのは一体誰なのだろうか。
 ――私?

「……なんてね」



 カーテンの隙間から射し込む朝日が、一日の始まりを告げていた。薄暗い寝室の中に入り込む光は、真っ直ぐカーペットに突き当たり窓枠の影を落とす。
 ベッドから体を起こし、カーテンを開ける。目についた窓のサッシはピカピカに磨き上げられていて、塵一つ見当たらない。
 それから私は、着ているネグリジェへと手を伸ばした。しゅるりと一気に脱ぎ捨てる。クローゼットを開け、飾り気の少ない真っ白なワンピースを取り出した。
 ワンピースに袖を通し髪をツインテールに結ってから、私は部屋をぐるりと見渡した。汚れのない清潔感に満ちた、まさに完璧とも言える寝室。私は満足げに頷いた。

 部屋の扉を開けると、パンの焼ける良い匂いが鼻孔をくすぐった。微かにバターの匂いも感じられる。
 私は数分後には口にすることが出来るであろうそれに胸を躍らせながら、キッチンにいる彼の元へと向かう。
 扉が部屋と廊下を隔てる音は、ついぞ聞こえなかった。
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